初めてのビジネスクラス
 国際線の飛行機には通常3つの座席クラスがあるという事は広く知られている。その最高峰がファーストクラス。しかし、アジア路線などの短距離や中距離路線にはファーストクラスは設定されていない。次がビジネスクラス。頑張れば手が届きそうだかボクにとってはかなり高値の華である。ファーストクラスが設定されていないアジア路線ではこのクラスが実質的な最高クラスだ。そして、一番安く利用できるのがボクがいつも愛用しているエコノミークラス。エコノミークラスは団体客や何らかの割引き運賃で乗っている乗客が大半を占め、中にはボクのように破格値の格安航空券で乗り込んでいる輩もいる。格安航空券で乗り込んでいても受けられるサービス内容は変わらない。そう。同じ航空会社の同じ便の同じ座席クラスに乗るなら1円でも安い値段で乗ったほうが得なのである。

 飛行機大好き人間の部類に属するボクは日頃から色々な航空雑誌などを見て上級クラスへの憧れの気持ちは持っていたが、先立つモノを持ち合わせていないので数十万円という高額な運賃などは払えない。豪華な食事や広い座席を体験してみたいとは思っていたが、いざとなると「この金額を出すならエコノミークラスでなら3回行ける。」と思い、いつもエコノミークラスで旅をしていたのである。

 そんな時、暇つぶしで久しぶりに何気なくシンガポール航空のホームページにアクセスすると予想以上にマイルが貯まっていた。なんと10万マイル以上も貯まっていたのだ。ボクは急に旅に出たくなった。これだけあれば遠くまで行けそうだ。「蓄積マイル数で可能な渡航先」と書かれたボタンをクリックすると一覧表が表示された。エコノミークラスならヨーロッパまで行けるらしい。そして、東南アジアならビジネスクラスに乗って行けると書かれていたのだ。

 やったーっ!ボクは思わず声を上げてしまった。憧れのビジネスクラスに乗るチャンスがやって来たのである。いそいそとパソコンを操作して予約を始める。入力した日付は二週間後。12月28日の出発。年末のただでさえ旅行客が多い時期に座席が空いているハズは無かった。日付をずらしても年末年始は既に全便満席になっているようだ。その当時、まだ会社勤めをしていたボクは年始早々に有給休暇を申請する勇気は無かった。そして大晦日の夜には実家に帰り正月は家族と過ごす約束もしていた。行くなら28日出発の31日帰国のスケジュールしか無理だったのである。

 しかし、諦め切れなかったボクは、何度見ても同じだとは思っていたが夜になってから再びシンガポール航空のホームページにアクセスした。行き先はシンガポール。すると画面に「予約可能」と表示される。ボクは自分の目を疑った。入力する日付を間違えたのだろうか。いや。間違っていない。この数時間の間に予約していた誰かがキャンセルをして座席が一席だけ空いたようだ。グズグズしていたら誰かが予約を入れてしまうかも知れない。興奮したボクは手を汗で湿らせながら予約ボタンをクリックした。画面は帰国便の選択画面に移る。12月31日に帰国する便を選択すると「予約完了」と表示された。まさに夢のようだった。まさか予約が入るとは思いもしなかった。これで憧れのビジネスクラスに無料で乗ることができるのだ。

 ベッドに入っても興奮して眠れない。航空雑誌を見ながら二週間後のビジネスクラスを想像する。そうしている内に「もしかしたら勘違いだったかも知れない。」という不安に襲われた。ボクは再びパソコンを立ち上げ予約を確認する。画面にはボクの予約が表示された。暗闇の中、パソコンの画面を見ながら微笑んでいるボクは気持ち悪いヤツにしか見えなかっただろう。

 その時、ボクの頭の中に更に図々しい考えが浮かんだ。せっかく初めてビジネスクラスに乗るのだから往復の2回だけでは勿体無い。シンガポールから足を伸ばしてバンコクまで行っても必要マイル数は変わらないハズなのだ。そうすると合計で4回もビジネスクラスに乗ることができる。そして、関西空港、シンガポールのチャンギ空港、更にバンコクのドンムアン空港の3つのビジネスクラスラウンジにも入ることもできる。

 ボクは予約の変更をする事にした。シンガポール航空の無料航空券は往路または復路で1回のストップオーバーができるルールになっている。ストップオーバーとは日本語で途中降機の意味。経由地の都市でも滞在できるのである。このルールを使えば、単にシンガポールで飛行機を乗り換えてバンコクへ向かうのでは無く、シンガポールとバンコクの両方に滞在する事ができるのだ。



 やっと出発の朝が来た。ジィーンズにTシャツ、その上にジャンパーを羽織ってスニーカーを履いたラフな格好で空港へ向かう。ハッキリ言って普段着。関西空港は人でごった返している。さすがに年末だ。チェックインカウンターには長蛇の列。いつもならこの長い列の最後尾に並ばなければいけない立場だが今日は違う。ボクはスーツケースを引きずってブルーのカーペットが敷かれたビジネスクラス専用のチェックインカウンターへ向かった。進まない列に並んでいる人たちからの視線が少し快感でもある。すると警備員が駆けつけボクに声を掛ける。
「お客さん!ここはビジネスクラスの人専用ですから列に並んでください。」
「ボク、ビジネスクラスですけど。」
「えっ!ビジネスクラスのお客様でしたか...。」
「そうですけど。何か?」
「いえ、失礼しました。」
そう言って慌ただしく動き回っているチェックインカウンターの係員に「ビジネスのお客様がお見えです!」と叫んだ。ボクの格好はどう見てもビジネスクラスに乗るような風貌では無いのだろう。

 エコノミークラスのチェックインを手伝っていた係員は慌てて戻って来た。
「失礼致しました。パスポートを拝見できますか?」
「田中様でございますね。お待ち致しておりました。」
「荷物は1つでございますか?」
「本日はシンガポールでお乗換え頂いてバンコクまででございますね。」
「荷物はバンコクまでお預かり致します。」
その女性は丁寧な口調でそう言いながら端末を弾いてチェックイン手続きをし、ボクの胸にステッカーを貼った。ステッカーには「priority(優先権)」と書かれている。年末で空港が混んでいるので飛行機に乗り込むまでは剥がさないようにと言われた。このステッカーはハッキリ言って少し恥ずかしい。まるで数年前のバスツアーの団体客のようだ。

 次に向かった手荷物検査場でも長蛇の列ができていた。ここは座席クラスに関係なく全員が検査を受けるのだから仕方が無い。ボクは諦めて列の最後尾に並んだが列はなかなか前に進まない。この分だとビジネスクラスラウンジを楽しむ時間が無くなりそうだ。そう思っていると廻ってきた警備員が「お客様。どうぞこちらへ。」とボクに声を掛けた。どうやら胸のステッカーを見て声を掛けてくれたらしい。恥ずかしいのを我慢して言われた通りに胸にステッカーを貼っておいて良かった。すごい威力である。

 ボクが案内されたブースは通常は乗務員と関係者専用として使われているブースだった。ポケットに入れていた物と背負っていたリュックをトレイに置き、金属探知機のゲートをくぐる。ただそれだけの事なのに、どうしてこんなに長い列ができるのか不思議だ。他のブースを見ていると半分近い人が止められ、同じ人が何度も金属探知機を通っていた。『週末しか運転しないペーパードライバーがドライブに出掛けると道路が渋滞する』と言っていた人が居たが、空港も同じ事のようだ。そのおかげで次の出国審査場は普段と変わらないくらいの人しか並んでいない。まだ長い列に並んで順番を待っている人には申し訳ないが、手荷物検査場が込み合っているのがラッキーだった。

 免税のタバコを1カートン購入したボクは急いでシンガポール航空のラウンジへと向かい、入り口の係員に搭乗券を見せ中に入る。いよいよ待望のビジネスクラスラウンジである。扉を入ると別世界だった。広々した部屋にはゆったりとしたソファーが置かれている。空港の待合室と言うイメージでは無い。飲み物も食べ物も無料。その種類も多く、ヘタはブッフェスタイルのレストラン以上だ。これがビジネスクラスラウンジ。ボクは色々食べてみたかったが、人の目もあるので数種類の料理を小皿に取り、ソファーに座った。考えは図々しいくせに小心者だったりするのである。

 それでも10種類近い料理を食べてから少し早めに搭乗口へと向かった。実は、ボクには1つやりたい事があったのである。飛行機への搭乗は上級クラスの乗客を優先に行われる。ボクは今までこの光景を見ているだけの人だった。しかし、今日は優先的に搭乗できるのである。搭乗口のゲートの前には既に列ができていた。全席指定席なのに並んでまで搭乗を待つ気持ちは理解できないが、少しでも早く乗り込みたいと思っているのだろう。ボクがイスに座って5分ほど待っていると搭乗案内が放送された。すると座っていた人たちが一斉に立ち上がる。しかし、まずはビジネスクラスの乗客からである。

 搭乗が始まるとスーツを着たビジネスマン、いかにもお金持ちそうな上品なご夫婦。ビジネスクラスの乗客が次々に機内へと向かった。係員は押し寄せる乗客の群れに向かって「ただ今ビジネスクラスのお客様のご搭乗を行っておりますので少々お待ちください!」と大声で叫んでいる。ボクがゲートに近付くと並んでいた若いカップルがヒソヒソ声で「この人、ビジネスに乗るんや。もしかして金持ちぃ?メッチャ高いんちゃうん。」と囁きあっているのが聞こえる。かなり優越感である。この優越感を味わってみたかったのである。しかし本当は無料航空券。それも初めてのビジネスクラスである。ボクはドキドキしているのを悟られないように乗りなれた振りをして機内へと向かった。ハッキリ言ってボクはちょっとイヤなヤツである。



 飛行機の入り口では客室乗務員が乗客を出迎えてくれている。それはエコノミークラスでも同じ事だか、「搭乗券を拝見できますか?」の声にボクが搭乗券を差し出すと「田中様。お待ち致しておりました。どうぞ。お座席はこちらでございます。」と言い、その乗務員がボクを座席まで連れて行ってくれた。「奥の通路です。」「手前の通路です。」と言うだけのエコノミークラスとは大違いだ。一人一人の乗客に対して客室乗務員が座席まで案内してくれるのである。座席に着いたボクが背負っていたリュックを下ろすと「お手荷物は上の棚にお入れしておきますね。」と言いボクの荷物を預かってくれる。「田中様はお酒がお飲みになれる方ですか?」との突然の問い掛けに声が出なかったボクが「うん」と無言で頷くと客室乗務員は笑顔で「では、ウェルカムドリンクはシャンパンをお持ち致しましょうか?」と続けた。

 広々した座席にチョコンと座り、緊張しながらシャンパンをチビチビと飲むボク。機内を見渡してみると他の乗客はみんな優雅に振舞っている。たぶん本当に乗り慣れているのだろう。キョロキョロしているのはボクだけだ。向こう側の席にボクと同じようなラフな格好の乗客が居るのを見て少し安心したが彼も落ち着いて新聞を読んでいる。真冬の旅行で良かったとボクは思った。暑い時期ならハーフパンツを履いて乗り込んでいたかも知れない。そうなると完全に場違いだ。いや。今でも十分過ぎるくらいに場違いだろう。

飛行機が誘導路を進み、滑走路を爆走してフワリと舞い上がった。飛行機に乗ってこんなに緊張しているのは初めてだ。もちろん飛行機が怖いわけではない。憧れのビジネスクラスに乗った期待感でボクはドキドキしていたのだ。


 シートベルトのサインが消えるとドリンクサービスだが、同時に客室乗務員は各座席にテーブルをセットし、純白のテーブルクロスを掛け、その上に注文した飲み物を置いてくれた。もちろんグラスはガラス製でプラスチックでは無い。そして、シンガポール名物のサテー(焼き鳥)が振舞われた。ワゴンの上のトレイには香ばしい香りを放つサテー。それを陶器の皿に取り分けてくれる。「わぁ!美味しそう。」と思わず小さな声で言ってしまったボクに「少し多めにお取り致しましょうか?」と声を掛けてくれる乗務員。こんなに小さな声の独り言を聞き取るとは恐るべしサービス精神である。

 サテーを食べ終わり、外の景色を眺めていると客室乗務員が空いた皿を回収しにやってきた。ボクが「美味しかったです。」言うと「ありがとうございます。」と答える。そして少しの雑談。その話の中でボクが食べられない物や好みを聴いていく。そう。雑談では無く、機内食のチョイスを聞き出していたのである。しばらくすると「田中様。前菜でございます。」の声。先ほどのサテーが前菜だと思っていたのだが、あれは単なるおつまみだったようだ。いつもならエコノミークラスで小袋に入ったピーナッツをカリカリと食べていたのに...。

 前菜もワゴンの上のトレイに綺麗にデコレーションされている物を小皿に取り分けてくれる。まるでホテルのコース料理だ。メインディッシュの仔牛のフィレステーキは本当に美味しかった。機内食はまだまだ続き、最後のデザートではワゴンの上はケーキバイキング状態。ボクは小さなケーキを2種類だけ選んだ。遠慮していたのでは無く、もう満腹だったのだ。


 食べ過ぎたボクは座席のリクライニングを倒し少し昼寝でもしようかと思った。ビジネスクラスのリクライニングは電動だった。リモコンのスイッチを押すと背もたれは動かずにフットレスト(脚置き)がもち上がる。ボタンを押し間違えたのだ。カラダが90度。カラダが硬いボクは焦った。するとそれを見た客室乗務員がスグに飛んで来て手伝ってくれる。なんとも恥ずかしい。顔を赤らめてお礼を言うと「申し訳ございませんでした。大丈夫ですか?」と心配そうな顔をしてボクを気遣ってくれる。ボクのキャラとしては笑ってくれるほうが気が楽だった。この失敗でボクが初めてビジネスクラスに乗った事とカラダが硬い事が一気にバレてしまった気がした。



 チャンギ国際空港は世界ベスト空港にも選ばれている空港だ。この空港を初めて訪れた人は広さと美しさに驚くことだろう。天井は高く、本物の樹木が生い茂り、小川が流れ、まるで植物園の温室の中に免税品店があるみたいだ。広大な免税品店のエリアでは乗り合いの電気自動車が走り回っている。この空港は東南アジアで有数のハブ空港でもある。ここで飛行機を乗り換え次の国へ向かう旅客が退屈しないように無料で映画を上映していたり、無料で利用できるインターネット設備も無数にある。その上、無料市内観光ツアーまで提供しているのだ。

 ボクが乗ってきた飛行機は関西国際空港からチャンギ国際空港までの直行便。ここでボクは飛行機を乗り換えてバンコクへ向かうのだ。ボクはあえて時間に余裕のある飛行機を予約していた。それは、ここチャンギ国際空港のシンガポール航空が有するビジネスクラスラウンジを楽しむ為だった。このラウンジは世界的に高く評価されているからである。せっかくのチャンスなのだから十分に楽しもうと考えていた。

 飛行機を降りたボクは買う気も無いのに免税品店をウィンドウショッピングし、ダラダラと空港を見学しながらラウンジ方面へ向かった。日本に居る時は決してウィンドウショッピングなんてしない。友達の買い物に付き合うのも断るくらいなのに海外に出ると性格が変わってしまうみたいだ。ウロウロするのが楽しい。広い空港を歩き回ってラウンジに到着したのは飛行機を降りてから一時間近く経った頃だった。

 入り口で搭乗券を見せ中に入る。ボクの目の前に広がるのは想像を絶する光景だった。午前中に入った関西空港のラウンジとは比べ物にならない。まるで超高級ホテルのロビーだ。中に進むとホテルのメインダイニングを思わせる広さのホールがあり、数え切れないほどのソファーで埋め尽くされいる。その奥にはビュッフェスタイルのレストランのように料理が並び、カウンターバーではバーテンがシェーカーを振っていた。ボクは料理を取り分けラウンジが見渡せる場所のソファーに着いた。世界中からやって来た人々。この人たちはこれからどこへ行くのだろうか。

 更に奥へ進むと高級感が漂うシックな部屋に無数のパソコンが置かれていた。利用者たちはホームページを見たりメールを書いたりしている。とりあえずボクも自宅にメールを一通だけ送り早々に部屋を出る。まだまだ色々な料理が並んでいたので食べたかったからである。

 いい気分でくつろいでいる時、飛行機の出発の時間が迫っている事に気が付いた。最終案内の放送が流れているが搭乗口の方向が分からない。焦っていると電気自動車の運転手が声を掛けてくれた。彼の運転する電気自動車は乗り合い用の電気自動車とは違い小型だった。ラウンジ利用客専用車のようだった。ボクは彼の運転する電気自動車に乗って搭乗口へ。なんともVIP待遇である。と言うより、どう見てもボクはVIPに見えないだろう。遊園地の乗り物を楽しんでいるヤツにしか見えない気がした。



 これから再びの空の旅である。ボクが乗ったこの飛行機はシンガポールを出発してバンコクを経由したあと、どこまで飛んでいくのだろうか。ボクはその内のシンガポール/バンコク間だけの搭乗だったが長距離路線に間違いない。この飛行機にはファーストクラスも設置されているのだ。乗り込む際に見たファーストクラスの座席はさすがに豪華だった。ボクの座席はこの飛行機でもビジネスクラス。ファーストクラスには及ばないが乗り慣れたエコノミークラスより断然広い。しかし、関西空港から乗って来た飛行機の座席より古いタイプの物だった。乗り合わせている乗客の大半はヨーロッパ系の白人。ボクが乗っているビジネスクラスに日本人らしき人物は乗っていないようだ。

 ボクが座席に着くとスグにドアクローズされ、機体は動き始めた。出発ギリギリに乗り込んだボクはウェルカムドリンクのシャンパンを飲み損なったのである。ちょっと損をした気分である。今回のボクの座席は残念ながら通路側。窓側には肌の色が濃いマレー系の男性が座っている。ボクよりかなり年上だ。二言三言話をしたが彼はロンドンまで行くらしい。貿易商だろうか。ボクは勝手に彼の仕事を決め付けていた。

 ボクは外国から外国へ向かう飛行機に一人で乗るのは今回が初めての経験だった。機内アナウンスは英語のみ。機内誌にも日本語の文字は見当たらない。日本人が乗る可能性が少ないのだから当たり前と言えば当たり前だ。当然、日本人の客室乗務員も乗務していないだろう。英語が堪能に話せる訳でも無いボクは少し不安を感じたが3時間程度のフライトだ。なんとかなるだろう。

 サービスされた機内食は軽めの物だった。バンコクまでのフライト時間は短いのだから当然かも知れない。バンコクを出発してから本格的な機内食が振舞われるのであろう。それでもメインディッシュはチョイスが可能だった。ボクは魚料理を選んだ。その理由は、ボクの英語の発音はかなり悪いらしく、ビーフ(牛肉)と言うとビールに聞こえるらしいという事を知っていたからである。実は過去に、機内食の選択でビーフと言ったら缶ビールを手渡された事がある。しかも、その経験が一度では無く何度もあるのだ。「ノー・ビアー。アイ・ウォント・ビーフ。」と言うと「オー・ソーリー。」などと言って取り替えてくれるのだが、白人に囲まれたビジネスクラスの中でそんな会話をするのはあまりに恥ずかしいと思ったのだ。英会話力も無いクセに見栄だけはあるのである。

 パーソナルモニターで映画を見ていると飛行機は高度を落としバンコク・ドンムアン国際空港に着陸した。立ち上がる時、腹が重かった。そう言えば、今日は時間に関係無くずっと食べ続けている。まさにフォアグラ状態だ。暴飲暴食で体調を壊したら大変だ。バンコクは夜のとばりが降りている。もう今夜は何も食べずに眠ろうと思った。

 タクシーでホテルに向かったボクは部屋に入るとすぐバスタブに熱い湯を張った。移動だけの一日が終わろうとしている。貧乏性のボクは、いつもなら移動だけで一日を終わらせるのは勿体無いと思ってしまう。しかし、今回は移動する事に意味がある旅なのである。言い換えればビジネスクラスを満喫する事だけが目的のような旅なのだ。明日の予定は何も無い。午前中はホテルのプールで日光浴でもし、退屈すれば街をブラつくくらいだ。




 バンコクを出発する日がやってきた。ドンムアン空港のビジネスクラスラウンジを楽しむ為、早めにホテルをチェックアウトしたボクはタクシーで空港へ向かう。タクシーは渋滞に巻き込まれる事もなく空港へ到着した。飛行機のチェックインを済ませてラウンジへ向かう。ドンムアン空港のラウンジは関西空港のそれとさほど変わらない。チャンギ空港のラウンジを見てしまった後では感動する程でも無かった。何も知らなかったクセに、この数日の間に贅沢になってしまったものである。それでも適当に料理を頂き、ソファーでくつろいでから搭乗口へ向かった。

 この飛行機はどこから飛んできたのだろか。出発地はわからなかったが、ここバンコクを経由してシンガポールへ帰る飛行機のようだった。ゲート前の待合所で待っている人の多くは暖かそうなコートを持っていた。寒い国から飛んできたらしい。今回も日本人らしき人の姿は無い。夜遅くにシンガポールに到着する便に日本へ帰る人は普通乗らないだろう。

 機内に入ってシャンパンを飲みながら離陸を待っている間に窓の外は豪雨になっていた。はたして飛び立てるのだろうか。飛行機は豪雨の中、スポットを離れて滑走路へ向かう。空を覆った雨雲が雷の稲妻で紫色に美しく染まる。誘導路を走っている間に雨は弱くなっていったが止んではいない。水平飛行に移るまでにかなり揺れそうだ。ボクはいつもより強めにシートベルトを締めた。

 予想どおり機体はガタガタと揺れながら上昇を続け雲の上に出た。眼下では時折稲妻が光っている。雲の上から見る雷は本当に美しい。機内では食事の準備が始まっていた。ビジネスクラスもこれで3回目。ボクは乗り慣れた乗客のようにサービスを受ける。メニューには軽食と記載されていたが結構なボリュームである。ただ、気流が乱れているのか時折揺れる。その為、ワゴンでのサービスでは無く、ギャレーから直接一皿一皿を手で運んでサービスしている。ギャレーと座席を行ったり来たり。客室乗務員はてんてこ舞いだ。それでも笑顔で接しているから素晴らしい。

 機内食を食べ終わるとすぐに飛行機は降下を始めた。シートベルトのサインがなかなか消えなかった為、機内サービスの開始が遅くなったのだろう。ギリギリの時間だったとは言え、この短い時間でいつもと変わりないサービスを提供するとはプロと言った感じである。

 ボクは数十時間前に居た場所に戻ってきた。チャンギ国際空港は時間を感じさせない。深夜だと言うのに世界中からやって来た人々が行き交い、閉店している店も無い。だいたい店にシャッターなど最初から付いていないのだ。深夜になると免税品店が閉まっている関西空港とは大違いである。

 入国審査を終え、税関を通り抜けようとすると係員に「タバコを持っていますか?」と尋ねられえた。ボクは正直に1カートンと吸いかけのタバコが数個あると答えると税関のオフィスに行って税金を支払えと言う。ボクがもう一度1カートンだと言うとオフィスへ行けと繰り返す。ボクは知らなかった。シンガポールにはタバコの免税枠は無かったのだ。タバコの持ち込みには税金が加算されるのである。

 ボクは渋々税関のオフィスに向かった。オフィスには感じの悪い係員が居た。ボクはテーブルにタバコを1カートン置き、免税枠が無い事を知らなかったと言った。係員は表情を変えずに伝票を書く。タバコ持ち込み税をシンガポールドルで請求してきたのだ。それを見てボクはキレた。今、到着したばかりなのにシンガポールドルを持っているハズが無い。それにここで税金を払ったら免税で買った意味が無い。ましてやこのタバコはシンガポールでは消費しない。最初は必死に英語で文句を言っていたが途中から日本語で騒ぎ立てた。あまりの剣幕に他の客も驚いている。

 すると係員は「クレジットカードを持っているか?」と言い出した。持っているが税金を支払うツモリは無いと言い返すと「ロッカーで預かるので税金は要らない。」と言う。ただし、預かり賃が要ると言うのだ。それをクレジットカードで払えと言う。ボクが金額を聞くと日本円にして数百円だった。それなら納得がいく。ボクがクレジットカードにサインをしていると横に居た日本人カップルが恐る恐るボクに声を掛けてきた。

「あの〜っ。日本の方ですよねぇ?」
「あっ、はい。そうですけど...。」
「税金、どうなりましたぁ?」
「シンガポールに持ち込まないならロッカーで預かってくれるらしいです。」
「えっ、そうなんですかぁ!?」
「でもロッカー代が少しだけ要るらしいですよ!セコイですよねぇ!」
「すみませんが、ボクたちも同じようにって言ってもらえませんでしょうか。」

 ボクは係員にその事を告げ、日本人カップルの手続きが終わるのを待ってオフィスを出た。男性が書類に必要事項を書いている間、女性がボクを引き留めるかのように話し掛け続けてきたからである。二人は新婚旅行でシンガポールへやって来たらしい。二人とも初めての海外旅行である事。友達にシンガポールは日本語が通じると言われた事などを聞かされた。日本語が通じるのは日本人をターゲットにして営業している店くらいだと思ったが不安にさせても悪いので言わなかった。ボクが、どうやってホテルまで行くのかと尋ねると外へ出たら現地係員が迎えに来てくれているハズだと言う。パックツアーなら安心だ。ボクが地下鉄に乗ってホテルへ向かう事を告げると「え〜っ!すごいですねぇ!」と驚いていた。本来、こっちが普通だと思うのだが...。



 約30時間のシンガポール滞在を楽しみ、ボクは帰国の途に就いた。夜も明けきらない時間の早朝便だ。眠い目を擦りながら飛行機のチェックインを済ませラウンジへ向かう。まだ眠たくてテンションが上がらない。ハッキリ言って、朝食を食べる為だけにラウンジへ。温かい中華粥がこのうえなく旨かった。慌ただしく食べ物を掻き込んで搭乗口へ向かう。もうギリギリの時間である。

 ボクは飛行機に乗り込み座席に着いた。今回は右側の窓側席である。朝から酒を飲む気にもならない。ボクはウェルカムドリンクにアップルジュースを頂いた。ボクにとって、これで最後になるかも知れないビジネスクラスの旅が始まる。今度このシンガポール航空に乗る時は乗り慣れたエコノミークラスに座っている事だろう。夜が白々と明けていくチャンギ国際空港。窓から外を眺めながら今回の旅の事を思い出していた。

 しばらくするとドアクローズしたが隣りの座席には誰も来なかった。他にも何席かが空席のままになっている。旅行者は海外で年を越し、出張族は既に日本の家族の元へ帰っているのだろう。大晦日の日本行きは意外に空いていた。シートベルトのサインが消えると客室乗務員は一斉に動き始める。ボクはシートを全開に倒し、機内食までの時間を横になって待つ事にした。

 いつの間にかウトウトしてしまっていたボクは食事の匂いで目が覚めた。まるで犬のようである。機内食のサービスが始まっていた。ボクの目の前には「お目覚めになったら声をお掛けください。」と書かれたシールが貼られている。ボクが目覚めてリクライニングを戻した事に気が付いた乗務員が「お食事を召し上がられますか?」と尋ねてくれる。食べます!食べます!絶対食べます!もう一生食べる事がないかも知れないビジネスクラスの機内食。何が何でも絶対食べます!

 いったい何が出てくるのだろう。いくらなんでも朝からステーキは食べる気にはならない。ボクは洋食のコースを選択したがステーキは要らないと付け加えた。前菜は海老のカクテルや貝柱のマリネ。熱帯の国で作られた生ものは少々不安だったが旨かった。早朝便の為、機内食を食べずに眠ったままの乗客も何名か居る。通路を挟んで隣の乗客も眠っていた。よほど疲れているか、よほどビジネスクラスに乗り慣れているのだろう。この機内食を拒否するなんて事はボクには考えられない事だ。

 目もパッチリと覚め、モグモグ食事をしていると日本人の客室乗務員がやって来た。彼女はボクに「ステーキはお好みではないとの事でございましたが、ウナギの蒲焼はいかがですか?」と言う。ボクがワガママで断ったステーキをウナギの蒲焼に変更してくれると言うのである。ボクが「えっ?いいんですか?」と遠慮しながら聞き返すと「はい。それではご用意させて頂きますね。」と笑顔を残しギャレーの中へ消えていった。

 ボクの機内食は和洋折衷になった。運ばれてきた蒲焼は本当に美味しかった。ワガママついでに「あの〜、ゴハンを頂くわけにはいかないですか?」とボクが言うと「すぐにお持ちします。」と答え、ちゃんとお茶碗によそわれたホクホクの白ゴハンが出てきた。もちろん日本米だ。ボクは、シンガポール航空の日本路線ビジネスクラスでは機内でゴハンを炊いている事を航空雑誌で読んで知っていたのである。どんなに豪華な料理を食べても、やっぱり白いゴハンは美味しい。自分が日本人である事を自覚してしまう瞬間だった。

 食事の最後には色々なチーズとフルーツがワゴンで振舞われる。チーズが大好きなボクは「少しずつ全部貰ってもいいですか?」と言って、図々しくも全種類を小皿に盛ってもらった。実はフルーツも食べたかったのだが、あまりに恥ずかしいので言わなかった。赤ワインを飲みながらチーズを食べる。なんてオシャレなんだろう。ボクの普段の生活ではありえない。

 数種類のチーズの中で1つ、今まで食べた事がない美味しいチーズがあった。通りかかった乗務員に「中に何か入っていたチーズは何ですか?すごく美味しかったです。」と言うと「あっ、フルーツチーズの事ですね。美味しいですよねぇ。私も大好きです。もし良かったら、もう少しお持ち致しましょうか?」とニコニコしながら言ってくれた。小皿にフルーツチーズを少し盛って持って来てくれるものだろうと思い待っていると、先ほどの乗務員が一旦ギャレーに片付けたワゴンを押して戻ってきた。ワゴンの上のチーズは綺麗に盛り直され、一度配り終えた後とは思えないようにデコレーションされていた。そしてその後を男性客室乗務員がフルーツのワゴンを押して付いてくる。ボクはフルーツチーズとカマンベールチーズを取り分けてもらった。すると「よろしければご一緒にフルーツもいかがですか?」と勧めてくれる。本当はフルーツも欲しいと思っていたのが顔にでも出ていたのだろうか。結局、フルーツまで貰ってしまった。朝からまたフォアグラ状態。食べすぎだ。よくこれだけ食べられるものだと自分でもあきれかえる。



 まもなく関西空港に到着である。徐々に高度を落とした機体は雲を切った。窓からは和歌山の海岸線が美しく煌めいているのが見える。風も無いのだろう。飛行機は高度を落としても揺れることも無く、まるで滑るように関西国際空港に着陸した。ゆっくりと誘導路を走る飛行機。スポットに到着し飛行機が翼を休めるとボクの旅も終わってしまう。

 何気なくホームページを見たことがキッカケで始まった今回の旅。今や乗り慣れていたシンガポール航空。バンコクには何十回も渡航している。シンガポールも初めてではなかった。しかし、今回の旅は本当に新鮮だった。まるで初めて海外旅行をする事になった若かった頃の時のように。いや、それ以上にワクワクし、ドキドキしながら初めての事に戸惑い。感動を連続で体験した。

 ボクは今まで上級クラスの高額な値段に対して納得していなかった。機内食が豪華、座席が広い、預けた荷物が早く出てくる。ただそれだけの事でエコノミークラスの何倍、格安航空券の十倍近い料金はおかしいと思っていた。しかし、今回の旅で考えが変わった。立派な設備を提供し、多くの人たちがボクのような者に対してでも最高のサービスでもてなしてくれる。上級クラスのサービスは飛行機に乗っている時だけでは無く、空港でチェックインした時から始まり、最後に預けた荷物を引き取るまで、常に最高のもてなし、サービスが続くのだ。

 ボクはこの素晴らしい思い出が霞まないように乗った飛行機と同じ機種の飛行機モデルを機内販売で購入していた。もう乗る事が無いかも知れないシンガポール航空ビジネスクラス。常に人気ランキングで上位を占めているシンガポール航空。ボクは今まで体験した事のない上質のサービスを受け続け、まるで夢のような思いをさせてもらった。

 降り立った大晦日の関西空港にはこれから飛行機で旅立つ人たちが押し寄せていた。これからボクが体験したのと同じような体験をしながら目的地へ向かう人がたくさんいるのだろう。ボクの旅は終わった。ボクは人の波に逆らうように鉄道駅へと向かう。夢のような体験を大切に心に刻んで。








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