シンガポールの格安ホテル
 ボクは深夜のシンガポールに降り立った。久しぶりに訪れたチャンギ国際空港は相変わらず美しかった。ロビーは花と緑に溢れ、深夜だと言うのに世界中からやって来た多くの旅行者が行き交っている。本当なら少し空港内をウロウロと見学したかったのだが、時間が遅かったのでホテルへと急ぐことにした。

 チャンギ国際空港にはMRTと呼ばれる地下鉄のような鉄道が直接乗り入れている。向かうホテルの場所にもよるだろうが安くて早いので本当に便利だ。ボクはMRTに乗り日本からインターネットで予約しておいたホテルを目指した。深夜と言う時間のせいもあるのだろうが、賑やかだった到着ロビーからMRTのホームへ向かう人は殆ど居ない。MRTに乗っているのはどう見ても海外旅行帰りとは思えない現地の人くらい。大きな旅行カバンを持っているのはボクくらいだった。外国人観光客の殆どは旅行会社がバスで迎えに来ているからだろう。もしくはタクシーでホテルへ向かっているのかも知れない。ボクは格安航空券を利用した一人旅。当然、迎えに来てくれる人など居ない。

 美しい街並みで有名なシンガポールであるが、ボクが予約したホテルがあるのは中心部から離れたイーストコーストと呼ばれている地区。一般の外国人観光客が宿泊するようなホテルやショッピングセンターが立ち並んだ華やかな地域ではなかった。ボクがこの地区にあるホテルを選んだのは単に宿泊料金が安いと言うだけの理由だった。シンガポールは他の東南アジア諸国に比べて驚くほどホテル代は高いのだ。今回の旅ではホテルでのんびり過ごす気は無かったので快適に眠れさえすれば安いホテルで十分だと考えたからである。そう思ってインターネットで安いホテルを探すと、たまたまこの地区のホテルが照会されたのだった。


 駅を出ると庶民の生活の匂いがした。道路は舗装されてはいるがガタガタ。ボクの記憶にあるシンガポールのイメージではない。空き地には廃車が放置され、ドブのような小さな流れには空き缶やゴミが浮いていた。ゴミを捨てると高額の罰金が科せられるハズのシンガポール。しかし、駅を出てスグの小川にはゴミが浮いているのである。この地区は観光都市『美しいシンガポール』では無いようだ。

 駅前からまっすぐに続く道は街灯が少なく薄暗かった。空き地なのか駐車場なのか分からないだ無駄に広い広場を通り抜ける。持っていた地図には道路だと書かれているが、どう見ても道路では無く広場である。所々ボコボコと穴が開いた地面をスーツケースを引きずって歩くのは大変だ。ボクは持って来るカバンを間違ったと少し後悔した。バックパックを背負っているほうが楽に歩けるほどである。まさかシンガポールに来てこんなにガタガタの道を歩くとは思ってもいなかった。


 駅前だというのに人が一人も居ないまるでゴーストタウンのような夜道をしばらく歩くと、今にも壊れそうな古い家の前に怪しげな女性が立っていた。その女性の前を通り過ぎようとするとボクに声を掛けてきた。「ハロー、ミスター。マッサージ、マッサージ。」窓越しに見える薄暗い部屋の中にはベッドが1つ置かれている。どうも売春宿のようだ。ボクは首を横に振り「ノー。」と答えて通り過ぎる。「ハロー、ミスター。ハロー...。」と、声を掛け続けているが立っている場所から動こうとはしない。一軒措いて隣の家の前に立っている女性も同じようにボクに声を掛けてくるが追っては来ない。シンガポールにもこんな場所があるのだと驚いた。

 やっとボクは車が走る大きな道路に出た。人も何人か歩いている。それを見てボクはホッとした。持っていた地図を見るとそろそろホテルも近いらしい。ホテルはこの道路から少し奥まった場所にあるようだった。途中、何度か道を尋ねてホテルに到着。思っていたよりも建物は新しい。ビジネスホテルと言った感じである。

 中に入るとフロントには普段着を着た中年の女性が座っていた。書類でも読んでいるのかと思って声を掛けたが居眠りをしているようだった。ボクの声で目を覚ました女性は目をシバシバさせながら少し恥ずかしそうにボクを迎えてくれる。チェックインの手続きをしながら、何度かあくびを噛み殺し「ソーリー。」と照れ笑いをしている。なんとなくアットホームでイイ感じだ。粗相の無い高級ホテルの対応は気持ち良いが、ボクはこのように人間味溢れる感じも好きなのだ。


 部屋のカギを貰ってエレベータに乗る。そして扉が開いた時、ボクは本当に驚いた。廊下が狭すぎる。こんなに狭い廊下を見たことが無かった。もし、ボクと同じようにスーツケースを引いた人が前から歩いて来ればすれ違えないくらいに狭い廊下なのだ。そして、廊下には驚くほど多くのドアが並んでいる。このぶんだと部屋もかなり狭そうである。

 部屋にはシングルベッドが1つ置かれ、作り付けのドレッサーとイスがあった。15インチくらいのテレビもあったが当然NHKは映らない。入り口を入ってスグの扉を開くとバスルールになっていた。いや、バスルームと言うよりトイレだ。タタミ半畳くらいのスペースに洋式トイレがあり、壁には固定式のシャワーノズル。もちろんバスタブなんて物は無い。「うわぁ!狭い...」思わずつぶやいたが無いよりはマシである。共同トイレや共同シャワーよりは便利だ。

 汗でベタベタだったボクは着ていた服を脱ぎ捨て、早速シャワーを浴びることにした。脱いだ服を置く場所も無い。仕方が無いので便器の蓋の上に服を置いてシャワーを浴びる。熱いと言えるほどの湯は出ないが気持ちイイ。固定式のシャワーはどうも苦手だ。脇の下やお尻が洗いにくい。そう感じるのはボクくらいなのだろうか。他の人がどうやって洗っているのかが不思議である。背中にシャワーを当てようと体の方向を変えたボクは思わず声を上げた。シャワーカーテンも何も無いので便器はビショ濡れ。もちろん便器の上に置いていた服も思いっきり濡れていたのである。ここまで濡れたらどうしようもない。ボクは開き直り、濡れてしまった服を洗濯することにした。ホテルに到着してスグ、全裸で洗濯をしている自分が滑稽でもあった。


 シャワーを浴び終わると部屋のエアコンは丁度良いくらいに効いていた。スッポンポンのままベッドの上に大の字に寝転ぶ。この開放感が堪らない。実に気持ちがイイ。ベッドのスプリングは悪くない。部屋は驚くほど狭いが清潔だ。とりあえずの物はすべて揃っている。しかも静かである。あまり面白くもないテレビの深夜番組を見ているうちにボクはそのまま眠りに堕ちていた。



 朝、目が覚めると時計は9時を廻っていた。しかし、このホテルは本当に静かだ。まるでボク以外は人が居ないような静かさである。いつまでもベッドの中でゴロゴロしていたくなるほど快適であった。しかし、それはあまりに勿体無い。ボクは身支度を整えて出掛けることにした。昨日の服はまだ乾いていない。ボクはスーツケースから新しい服を取り出そうと思ったが、部屋にはスーツケースを開けられるスペースが無かったのだ。スーツケースを広げる余裕も無いくらいに狭い部屋なのである。これには少々戸惑ってしまった。ベッドの上で広げるしかないようだ。安いホテルを探したとは言っても宿泊料金は日本のビジネスホテルに泊まるのと同じくらいの金額である。タイのバンコクなら中級ホテルに朝食付きで泊まれるだろう。やはりシンガポールのホテルはかなり高いようである。

 ホテルを出ると街は活気に溢れていた。繁華街ではなく観光地でもない。ここは庶民が生活している街である。何を売っているのか分からない商店。こんなガラクタを買う人がいるのかと疑ってしまうような店。漢字の看板が掲げられているのも目立つ。食べ物屋は店先にテーブルを出し、オシャレに言うならオープンカフェスタイル。しかし、オシャレなメニューなどは無い。単なる屋外メシ屋なのである。多くの建物は一階が商店になっており、その上はアパートになっているようだった。どの建物もかなり古びている。

 道路には歩道が無く、建物の軒先なのかアーケードなのか判断が付かない通路がある。まるで歩道の上に建物が覆いかぶさっているような感じだ。しかも、その通路は建物毎に道路からの高さが違う。よそ見をしながら歩いているとひっくり返って怪我をしてしまいそうだ。この街にバリアフリーなんて言葉は無いのである。実際、ボクは何度もコケかけた。その度に「オ〜!」と外国語で驚く自分が外国人かぶれのようで気持ち悪い。自分で自分を笑ってしまった。


 ボクは一軒の食べ物屋に入った。メニューがあるようなレストランではない。ボクは麺を茹でていた店員に声を掛けた。彼から帰ってきた言葉は英語ではなかった。ボクの英語も分からないようである。ボクが食べるジェスチャーをすると彼は「オーケー。」とだけ言い店先のテーブルを指差した。座って待てと言うことなのだろうか。とは言ってもまだ料理の注文をしていない。麺料理の店であることは間違いないが何が出てくるのだろう。メニューは一品だけなのだろうか。勝手にどんどん料理を出されて高額の料金を請求されたりはしないだろうか。ボクが少し不安になりながら待っていると「チン!」と言う呼び鈴の音がした。音に反応したボクが彼の方を見ると「取りに来い」と言うジェスチャーをしている。手渡されたプラスティックの使い込んだどんぶりにはラーメンが入っていた。ギトギトと油が浮いた濃い色のスープに黄色い麺、チンゲン菜のような野菜とアヒルの肉が入っていた。脂っこそうな見た目に反して薄味で旨い。それに安い。やはり庶民の街は最高である。

 散策を続けていると道端にドリアンを山積みにした小さなトラックが止まっており、何人かの人がトラックの周りでドリアンを食べていた。ボクはドリアンが大好きなのである。ボクはナタでドリアンをカチ割っていた青年に小さめのドリアンを割ってもらった。ドリアンは高級フルーツである。先ほど食べたラーメンより遥かに高かった。古新聞に包んだドリアンを受け取る。ボクは現地の人たちと同じように道端にしゃがみこみドリアンをむさぼった。手に突き刺さりそうなイガイガの殻の中から大きな実を掴み出し豪快に喰らい付く。なんて贅沢なんだろう。濃厚な甘味が口いっぱいに広がる。なんて旨いんだ。幸せである。こんなに大量にドリアンを食べたのは初めてだった。



 その日、少し遠出をしたボクがホテルの近くに戻ってきたのは夜だった。夕食は済ませていたのだが、今夜は最後の夜である。このままホテルへ戻ってしまうのは勿体無かった。明日の早朝の便で日本に帰らなければいけなかったからだ。

 ボクはメシ屋の集合体のようになっている所を発見した。適当なブースに行って料理を指差して注文。缶ビールも買い、店先に置かれたテーブルでシンガポール最後の夜を惜しんでいた。その時、隣りのテーブルでビールを飲んでいたオジサンがボクに話し掛けてきたのである。彼が話す言葉は分からなかった。シンガポールでは英語が通じるとは言われているが、英語で生活している人は多くは無い。マレー系の人たちはマレー語を話し、華僑の人たちは中国語で生活しているのである。

 ボクに話しかけてきた人は肌の色が濃いマレー系。だからマレー語で話しているのだろう。当然ボクはマレー語を話せない。それでも彼は一生懸命にボクに話しかける。どうやらボクがどこから来たのか訊いているようだ。ボクが「ジャパン」と答えると、「オ〜ッ!ジャパン!」と言いながらニコニコして乾杯をする。ボクは英語と日本語を混ぜて話し、彼はマレー語と英語を混ぜて話す。お互いあまり言葉が通じていないのに途中で握手をしたり笑い合ったりしていた。皿に食べる物が無くなると彼はつまみを注文しに行き、それを一緒に摘まんだ。ビールを飲み干したボクは缶ビールを2本買い、彼に一本おごった。ボクは楽しかった。言葉が十分に通じなくても楽しい時は楽しいのだ。シンガポール最後の夜に今回の旅で一番楽しい時間を過ごした気がした。



 ボクが以前、シンガポールを訪れた時はオーチャード通りと呼ばれるメインストリートに面した高級ホテルに宿泊した。空港からホテルまでは旅行会社のマイクロバス。豪華なロビー、高層階の広々とした部屋。夕食は『シンガポール名物の屋台料理とは言うものの周りのテーブルは日本人ばかり。朝食はホテルのレストラン。市内観光ではマーライオンやタイガーバームガーテンを見て回り、昼食は高級ホテルのレストラン。食後は市内の免税品店とオーチャード通りでのショッピング。それでもあの時は楽しかった。なんて美しい国なんだろうと思った。

 あれから何年も過ぎ、ボクの旅は変わった。決められたコースを辿る旅に窮屈さを感じるようになったのだ。旅はもっと自由に楽しみたい。興味の無い場所や店には行きたくない。多少の不安や不自由さを感じる事が楽しいと思うようになったのである。

 ボクは今までシンガポールを『キレイなだけで東南アジアの楽しさを感じられない退屈な国』だと思っていた。しかし、今回の旅でシンガポールに対するイメージは変わった。シンガポールは間違いなく東南アジアの国なのである。活気溢れる庶民の生活もある。洗練されたレストランでは味わう事のできない安くて旨い庶民の味もある。見知らぬボクにも気さくに話しかけてくれるアジアの下町っぽいところもちゃんとあるのだ。

 ボクは今回、この地区のホテルに宿泊して本当に良かったと思った。この街に来なければ、今でもシンガポールの事を退屈な国だと思っていたかも知れない。天に届くような高層ビル群。整備された道路や美しい公園。洗練された高級ホテルやレストラン。それがシンガポール。でも、ボクが滞在したこの街もシンガポールなのである。

 夜も明けきらない早朝、空港へ向かう電車の中でボクは思った。やはり東南アジアは楽しい。ボクは東南アジアが大好きだ。もちろん、このシンガポールも含めて。







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