陸路での国境越え(シンガポール/ジョホールバル)
 陸路を使って国境を越える。それは海に囲まれた日本では不可能な事。しかし、大陸の国では日常的に行われている。ボクはその体験がしてみたかった。今までに何十回も海外旅行をしてきたが、どの国へも飛行機でしか入国した事が無かったからである。ある日、ボクは『陸路での国境越え』を体験するだけの目的でシンガポールへと向かった。

 シンガポールとマレーシアのジョホールバルと言う街は、ジョホール水道と呼ばれる海によって隔たれている。しかし、そこにはコーズウェイと呼ばれる堤防が建設されており、陸路で行き来できるようになっているのだ。一本のコーズウェイには鉄道と自動車道路そして歩道が並んで通っている。ちなみに、コーズウェイはジョホール水道に掛けられた橋だと思われている事が多いが、実際には海を埋め立てて造られた堤防である。ボクも橋だと思っていた。

 ホテルを出発したボクはシンガポール駅へと向かった。どうせなら鉄道を使って国境を越えてみたいと思ったからである。その鉄道とはマレー鉄道。シンガポールを出発してマレーシアを縦断し、タイの首都バンコクまで続く鉄道なのだ。ボクはそのマレー鉄道の一区間、シンガポールからジョホールバルまでの一駅だけに乗車してみようと思った。一駅だけと言っても国境を越える。ちゃんと出入国審査もあるらしいのだ。

 ひっそりとたたずむシンガポール駅は少し寂れた感じだった。次の列車の時刻を確かめると30分後に出発するようである。窓口でチケットを購入したボクは駅の中や駅周辺をウロウロして時間を潰した。マレー鉄道の始発駅。てっきり混雑していると思っていたのだが駅で待っている乗客は数人だけ。まだ日が高いので少ないのかも知れない。

 チケットに記載された出発時間になった。しかし、列車はやって来ない。改札口も閉じられたままだ。待合所のイスに座って列車を待っている他の乗客は動揺もせず座ったままである。ボクのチケットに書かれた印刷が間違っているのだろうか。それから10分が過ぎた。列車は来ない。どうなっているんだろう。ボクは窓口へ行って出発時間を確かめてみた。すると窓口の係員は列車が遅れていると言う。他の乗客たちは相変わらずイスに座って待っている。ここでは列車が遅れるのは珍しい事では無いのだろう。イライラしているのはボクだけのようだ。

 ボクはイスに座って待ち続けた。ウロウロしていたら列車が入って来た時に気付かないかも知れないと思ったからだ。イライラしながらも待ち続けた。すると構内に放送が流れたが、ボクには何を言っているのか聞き取れなかった。しかし、放送に反応した乗客はどよめきだす。ボクは隣りに座っていた若い女性に何が起こったのかを尋ねてみた。なんと、列車はキャンセルになったと言うのだ。ボクは愕然とした。「列車が遅れている」と言うから我慢して一時間もここに座って列車を待っていたのにバカみたいだ。さすが東南アジアである。日本では考えられない事だ。

 ボクのイライラは頂点に達しようとしていた。窓口へ行きチケットの払い戻しを要求すると窓口の係員は「このチケットで次の列車に乗れるから待っていろ。」と言う。係員は謝ろうともしない。次の列車を待つのが当然のような言い方だ。ボクのイライラは爆発した。もう必死に英語を喋る気も無くなった。あえて日本語で文句を言ってチケットの払い戻しを要求した。



 駅を出たボクは走って来たタクシーに飛び乗った。列車がダメならバスがある。国際バスに乗ってジョホールバルへ行こうと思ったのだ。タクシーの中でボクは一時間も列車を待っていた事を運転手に愚痴りまくった。言い始めると止まらない。なぜだか、腹が立っている時には英語がスラスラ出てくるのも不思議だ。運転手はボクの愚痴を笑いながら聞き流していた。

 数分でタクシーはバスターミナルへ到着。バスターミナルと言うより、空き地にバスが止まっていると言った感じだ。バスの横では折りたたみ式のテーブルを置きチケットを売っている。ボクがバスを指差してジョホールバル行きかと尋ねるとチケットを売っていた青年は「そうだ。乗るなら急げ。」と言う。チケットを購入してバスに乗り込むとバスは満席に近い状態だった。残念ながら窓側の席は空いていない。

 ボクはマレー系青年の隣りに座った。彼はジョホールバルに住んでいるらしい。そして毎日このバスで国境を越え、シンガポールに働きに来ているとの事だった。以前に読んだ本に、『ジョホールバルに住むマレーシア人は物価の高いシンガポールで働いている人が多い』と書かれていたのを思い出した。マレーシアで働くよりもシンガポールで働くほうが給料が高いらしいのだ。このバスに乗っている人たちの多くは彼と同じように国際通勤なのかも知れない。

 満席になるとバスは出発した。車窓から見える洗練されたシンガポールの街並み。近代的なオフィスビルからは仕事を終え、家路を急ぐ人たちが続々と出てきている。バスは市街地を抜け、道路の両側に木々が生い茂る国道のような道を走り始めてスグに渋滞に巻き込まれた。この混み具合は、まるで帰省ラッシュの高速道路のようだ。この道は唯一の国際道路。シンガポールとマレーシアを行き来する車が多い事に驚いた。もう日が暮れかかっている。暗くなるまでにジョホールバルに到着できるのだろうか。あまりの渋滞にボクは少し不安になっていた。

 このバスに乗っているのはボク以外はマレーシア人なのだろう。シンガポールもマレーシアも他民族国家である。日本人と変わらない顔をした中華系の人、肌の色が濃いマレー系の人、より濃い肌の色で顔の彫りが深いインド系の人。黒い頭巾を被ったイスラム教徒の女性もたくさん乗っている。色んな民族のマレーシア人の集団の中、ボクだけが旅行者だった。

 眠っていた隣の席のマレー系青年が目を覚ました。彼はボクにマレーシアの入国書類を持っているかと尋ねる。そう言えば、バスのチケットを買った時に入国書類も一緒に手渡されたのだった。マレーシアの入国書類はシンガポールのそれと同一フォーマットになっているので迷う事は無かったのだが、彼は親切に書き方を教えてくれる。ボクはスラスラと書くのを止め、彼の説明を聞きながら書類を書いた。この親切さはマレーシア人の国民性なのだろうか。本当に親切だ。

 あいかわらずバスは渋滞に巻き込まれてはいるが少しずつ前に進んでいる。入力書類を書き終えたボクは窓から外を見た。歩道を歩いている人の数は数分前とは比べ物にならないくらいに増えていた。

 それから10分程してバスはコーズウェイと思われる一直線の道に差し掛かった。窓の外には大勢の人。渋滞している車を縫うように車道にも人が溢れている。ボクは事故か暴動でも起こったのかと思い少し恐怖を感じた。その瞬間、ボクが乗ったバスのドアが開く音がした。一斉に立ち上がる乗客たち。隣りのマレー青年も立ち上がりボクにバスを降りるように言う。いったい何が起こったんだろう。本当に暴動事件?

 後ろの乗客に押されながら訳も分からずにバスを降りたボクは運転手に「ボクはジョホールバルに行きたいんだ。」と言うと、バスの運転手は前方を指差し「イミグレーション!」と叫んだ。そうか!意味が分かった。この先にはシンガポールのイミグレーションがある。渋滞でバスが進まないので家路を急ぐ乗客はバスを降りて歩いてイミグレーションへ向かっていたのだ。

 目の前にはコーズウェイを跨ぐかのように立てられた巨大な建物。多分あの建物がシンガポールのイミグレーションなのだろう。ボクは人々の群れに混じって歩いた。巨大な建物がどんどん近くなってくる。かなりの巨大さだ。立ち止まって写真を撮っていたら後ろから文句を言われた。言葉は分からなかったが「邪魔だ!」とでも言われたのだろう。建物が目の前になると人々は我先にと走り始める。本気で走っている若者もいる。もちろんボクも走った。少し楽しい。

 建物に到着し、人の流れに身を任せて出国審査場へ向かったボクは驚いた。空港のイミグレーションでも見たことが無いくらいの長蛇の列。この分だとかなりの時間がかかりそうだ。そう思いながら列の最後に並んだのだが、意外にも列はどんどん進んでいく。かなり早い!パスポートをチェックしているとは思えない早さだ。

 ゲートが近付いてきてボクは間違いに気が付いた。ボクが並んでいた長蛇の列はマレーシア人とシンガポール人の列だったのだ。外国人の列は別にあった。しかもガラガラ。10人も並んでいない状態だった。ボクは外国人専用の列に並びなおし順番を待った。その間にもマレーシア人とシンガポール人の列はガンガン進んでいる。見ていると彼らはパスポートにスタンプを押していないようだった。もちろん外国人のボクのパスポートにはシンガポール出国のスタンプが押された。

 出国審査を終えたボクは再び人の流れに身を任せて前に進んだ。行き着いたのはバス乗り場。ここで再びバスに乗り込みコーズウェイを渡るようだ。と言っても、ここまでボクが乗って来たバスがどんなバスだったのか分からない。国際バスを運行しているバス会社は何社かあるようだ。そして、バス会社ごとにバス停が違っているようだった。ボクは廻りにいた人に何度かバス停を尋ねて無事に元のバス会社のバスに乗り込んだ。

 一直線のコーズウェイ。それはほんの数分だった。バスは再び乗客を降ろす。今度はマレーシアの入国審査の為だ。マレーシアのイミグレーションの建物は数分前のシンガポールのそれとは比べ物にならないくらいに簡素な建物だった。そして入国審査も驚くほど簡単に済んでしまった。ボクがパスポートと入国書類を提出すると、係員はパスポートの名前のページを確認する事も無くスタンプを押したのだ。日本のパスポートを持っていれば無条件に入国できるかのようだった。

 建物を出るとバス停があったが、ボクはバスに乗らずに歩いてジョホールバルの街へ出ることにした。とりあえずバス停の近くにあった両替所でシンガポールドルをマレーシアリンギットに両替する。初めて見るマレーシアのお金。ボクはマレーシアに入国したのだ。しかも念願の陸路での入国。ボクは一人でニヤニヤしながら感動していた。

 ジョホールバルの街はシンガポールとは違う雰囲気を持っていた。マレー語の文字は英語と同じ文字だが何が書かれているのか検討も付かない単語ばかりだ。道行く人が話している言葉も全然理解できない。シンガポールでは多く見た華僑系の人の姿も少なく、殆どの人が肌の色が濃いマレー系。自分と肌の色が違う人ばかりに囲まれるととても異国を感じる。マレーシアは魅力的だと思った。

 せっかく入国を果たしたのだが、もう夜になっている。観光地へ行くような事もできない。と言うより、陸路で国境を越えるだけが目的でここまで来てしまったボクはジョホールバルについての予備知識も無く、ガイドブックすら持っていなかったのだ。ジョホールバルの街の事を何も考えていなかった自分に後悔した。

 とりあえずボクは街をブラブラ歩き回ってみた。なんとなく楽しそうな街である。できればここに2泊くらいしてみたいと思った。このまま帰るのは悔やまれるのでボクはマレー料理を食べる事にした。もちろん高級そうなレストランに入るツモリは最初から無い。現地の人をターゲットにした庶民の味が食べたかった。

 街を歩き廻り中心部から少し離れたところに一軒の食堂を見つけた。俗に言うぶっかけメシ屋だ。店の前の歩道にはテーブルが置かれ、数人の人が食事をしている。客も従業員も全員がマレー系。この雰囲気が堪らない。ボクはこの店に決めた。

 ボクは並んだバットのおかずを指差しで数種類選びテーブルに着いた。客も従業員もボクに注目している。「こいつ何者だ?」とでも思っているのだろう。プラスチックの皿に白ゴハンが盛られ、その上にボクが選んだおかずがぶっかけられている。実に旨そうだ。

 ボクは大きな肉のかたまりにフォークを突き刺し一口でほおばった。辛い!ボクはとっさに肉を吐き出し「わぁ!」と声を出した。それを見て客たちは笑い出した。ボクには笑顔を返す余裕すら無かった。舌がヒリヒリする。辛そうな色をしていなかったから安心して食べたので本当にビックリしたのだ。ボクは辛さを紛らそうとコーラを飲んだ。そして次の瞬間。ボクはコーラを吐き出した。コーラの炭酸でヒリヒリしていた舌が一層ジンジンと痛くなったからだ。これには従業員も笑い出した。一気にボクは店の人気者である。いや、ただの笑い者だ。

 
ボクはずっと注目されながら食事を続けた。辛さで汗がダラダラ吹き出る。本当に辛い。ボクは時々口を大きく開け、手のひらで口を扇いだ。その度に笑われる。客の中の英語が話せる男性がボクに「どこから来たのか?」「辛いか?」と話掛け、ボクが答えるとそれをマレー語でみんなに通訳している。口の中は大火事のようだけど楽しい。

 ようやくボクが残さず全部食べ終わると拍手が沸いた。ボクは大袈裟にもう一度手のひらで口を扇いで見せた。みんな大笑いでウケている。みんな楽しそうだ。もちろんボクも楽しんでいた。お金を払い、ボクは店を後にすると後ろから「サムライ!」と叫び声がした。振り返るとボクに手を振ってくれている。ボクも手を振り返し「グッバイ!」と叫んだ。ボクがサムライ?夜道を一人歩きながら思い出して笑っている自分が恥ずかしい。



 食事を終えたボクはシンガポールへ戻る事にした。もう真夜中だ。街を歩く人の数も減っている。ボクはイミグレーションでマレーシアの出国審査を受けた。入国の時も簡単だったが、出国の時はそれ以上に簡単である。何のチェックもする事無くボクのパスポートには出国スタンプが押された。

 イミグレーションを出たボクはコーズウェイを歩いてシンガポールへ向かう事にした。真夜中のジョホール水道を眺めながらシンガポールを目指す。ボクの足取りは軽かった。真っ暗なジョホール水道。遥か沖に見える明かりは船の明かりだろうか。コーズウェイの波打ち際にはゴミが打ち上げられている。悲しい景色ではあるが大阪に住んでいるボクには見慣れた光景だ。捨てられているゴミを見ても驚かない自分が悲しい。

 ボクは急ぐことも無く一歩一歩前進した。今、ボクはマレーシアからシンガポールへの道のりを歩いている。どこがボーダーラインなのか分からないが、このあたりがコーズウェイの真ん中。ボクは自分の足で国境を越えた事に感動していた。まだまだ続くコーズウェイ。ボクの目の前にはシンガポール・イミグレーションの立派な建物が見えている。そして、その奥にはシンガポールの高層ビルの明かり。車のヘッドライトに照らされながらボクはデジタルカメラで自分自身を撮影した。

 歩くには少し長い距離のコーズウェイを渡り切り、ボクはシンガポールのイミグレーションに並んだ。もう深夜だと言うのに結構な数の人がいる。ボクの順番がやって来たのでパスポートを差し出すと、係員は「航空券は?」と言う。ボクは「航空券は無い」と答えた。するとボクのパスポートは捨てるように返され、次の人の入国審査を始めた。

 ボクは明日の早朝便を予約していたが、チケットは『e−チケット』と呼ばれる電子航空券だった。だから昔ながらの紙の航空券は持っていなかったのだ。ボクはもう一度係員にパスポートを差し出した。係員はさっきと同じように「航空券は?」と言う。ボクは「航空券は無い。飛行機の予約はある。ボクの予約はe−チケットだ。」と言ったのだが、「航空券は?」と一点張り。

 ボクは諦めた。この人に何度言っても無駄だと思ったボクは隣りの列に並びなおして順番を待った。このままシンガポールに入れなかったらどうしよう。今まで何十回も海外旅行をしてきたが入国審査で断られたのは初めてだった。窓口から引き下がるボクを白人たちが変な目で見ている。まるで『アイツ、入国拒否されてるぜっ!』と、あざ笑っているような目だ。

 やっとボクの順番が来た。パスポートを提出して「シンガポール航空を予約しています。ボクの航空券はe−チケットなので紙の航空券は無いです。」と言った。そのボクに係員は「航空券」と言う。コイツも駄目だ。理解してくれていない。ボクは焦った。シンガポールに再入国できなければ早朝の便で日本に帰れなくなってしまう。ボクは「コンピュータをチェックしてください。ボクの予約が入っています。」と言うと「ここに予約をチェックできるコンピュータは無い。」と言ってパスポートが返された。マジでヤバイ!シンガポールに入れない。完全入国拒否である。

 ボクは途方に暮れてしまった。もう予約した早朝便に乗るのは無理だ。今夜はジョホールバルに戻って宿を探し、夜が明けてからシンガポール航空のオフィスに泣き付くしか無い。泣き付いたとしてもボクは格安航空券で来ている。『いかなる理由でも発券後の予約変更はできない』と言う条件なので航空券を買いなおすしか帰国の方法が無いかも知れない。ボクは入国審査を受ける人の列を焦点が定まらない目で眺めながら絶望感に襲われていた。

 その時、ボクを入国拒否したブースの係員が交代した。クタクタのおじさんから若い女性係員に代わったのだ。ボクは『彼女なら理解してくれるかも知れない』と思った。気を取り直し、列に並んで順番を待つ。どうか入国できますよに。ボクは本気で祈りながら順番を待った。

 やっとボクの順番が来た。パスポートを提出し、飛行機の予約はしているがe−チケットの為、紙の航空券が無い事。既にシンガポールのホテルにチェックインしていて部屋には荷物が置いてある事。日帰りでジョホールバル観光へ来て、明日の早朝便で日本へ帰る事...。ボクは必死に伝えた。彼女は「予約の控えを持っていますか?」と言う。ボクは「今は持っていません。ホテルにあります。ごめんなさい。」と言った。ボクは本気で謝っていた。シンガポールへの入国条件として『シンガポールを出国する為の航空券を持っている事』と定められているのを知っていたからだ。

 彼女はボクの顔とパスポートの写真ページ、ボクのパスポートに押された数々の出入国スタンプをチェックし、「オッケー!」と言ってシンガポールの入国スタンプを押してくれた。ボクは急に力が抜けていくのを感じた。そして「ありがとう!」と何度も言いながら返されたパスポートを握り締めた。

 こんな事になるとは思わなかった。時計を見ると日付が変わろうとしている。ボクは一時間近くもこの建物で足止めされていたのだ。急いで建物を出ると丁度一台のバスがやって来た。もうどこ行きでも構わない。どうせ全部シンガポール行きだ。と言うか、もうここはシンガポール。ボクはバスに乗り込み、運転手にバスの行き先を尋ねた。帰ってきたのは知らない地名。シンガポールの地図を持っていないボクには探す手段も無かった。

 仕方が無いので一番前の席に座り移り変わる景色を食い入るように見ていた。少しでも見覚えのある場所に来たら降りようと思っていたからだ。バスの中に乗客はボクだけ。運転手はボクに行き先を聞いてくれたがホテルの名前と最寄の地下鉄の駅名しか知らなかった。しばらく走るとバスは地下鉄の駅らしき場所で止まり一人の乗客が乗って来た。運転手に「まだ地下鉄は走っているますか?」と尋ねると「走っている。」と言う答えが返ってきた。ラッキーだ!これでホテルへ帰れる。しかもタクシーより安く帰れる。



 ようやくホテルに帰り着いたボクは帰国の準備をした。あと4時間もしたら空港へ向かわなければならない。今夜は寝てなどいられない。疲れ果てていたが、ここで寝たら絶対に起きられないと思った。ベッドに横たわりながらテレビの深夜番組を見て時間を潰す。面白くも無いテレビを見続けるのは実に苦痛だ。

 しまった!ボクはいつの間にか眠ってしまっていた。時計を見ると予定していた時間より30分も過ぎていた。ボクは大慌ててフロントへ行きチェックアウトの手続きをする。ゆっくりした動きの眠そうなフロントマンを急がせて地下鉄の駅まで走り続けた。スーツケースが悲鳴を上げているが構っていたら飛行機の乗り遅れてしまう。ホームに上がるとスグに電車がやってきた。もうチェックインが始まっている時間だったが、この分だとギリギリ間に合いそうだ。

 ボクは息を整え、持っていたペットボトルの水を一口飲んだ。その時、斜め前に座っていた男性と目が合った。あっ、そうだ。シンガポールの地下鉄の車内と駅構内では飲食禁止。しかも罰金刑なんだった。ボクは慌ててペットボトルをカバンに仕舞った。

 空港駅に着いたボクは再び走り出した。エレベータの場所なんて探す余裕も無い。ボクはスーツケースを引き摺ったままエスカレータを駆け上がる。ここまで来て航空券を買い直すくらいならスーツケースが壊れたほうが安い。ボクはガンガンと大きな音を立てながらエスカレータを駆け上がりチェックインカウンターへ。なんとか間に合い、免税品店を物色するヒマも無く飛行機へ乗り込んだ。



 今回の旅は忘れられないモノになった。初めて陸路を使って国境を越えた事。それだけが目的の旅だったのだが、初めて入国拒否されると言う体験までしてしまった。その上、帰国できなくなってしまうかもと言う恐怖感も味わった。最後の最後にも飛行機に乗り遅れそうになっている。

 ジョホールバルの街は魅力的だった。たった2時間ほどしか滞在しなかったのが残念で仕方が無い。今度、機会があったらジョホールバルで何日間か過ごしてみたい。

 マレーシアの人たちは本当に親切だった。ボクはマレーシアについて何も知らなかった。ジョホールバルの街に対しても興味を持っていなかった。その事を後悔し、自分を恥ずかしいと思っている。ボクは『その国に行くなら「ありがとう」程度の言葉は覚えて行くのが礼儀だ』と思っていた。今までずっとそう思っていたのに、今回は何も知らないままだった。ボクの為に一生懸命英語で教えてくれたマレーシアの人たちに対して「サンキュー」としか言えない自分を恥ずかしいと思った。本当は「テレマカシィ」とマレー語で言いたかった。でも、日本に帰国するまでマレー語を一言も知らなかった。

 イスラム教の国・マレーシア。今まで一度も興味を持たなかった国なのに、この気持ちの変化に我ながら驚く。首都、クアラルンプールを訪れてみたいと初めて思った。どうしてボクは今まで一度もマレーシアを訪れなかったのだろう。

 『陸路で国境を越えてみたい』と言う思いだけで旅立った。家族や友達には「そんな目的だけでシンガポールまで行くの?勿体無い!贅沢過ぎる。」等と少し反対されたが、ボクは今回の旅に出て本当に良かったと思っている。貴重な体験や感動、人の優しさ、自分の不甲斐無さ。そして何よりもマレーシアに興味を持った事が一番大きな収穫だった。







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